http://www.mapple.net/から引用

左官職人の町として知られており、凄腕の職人たちを多く生んでいる。その中でも特に馬路出身の職人は有名だ。なぜ馬路には左官職人が多くいたのだろうか?

大田市仁摩町の町史の「馬路と職人」という資料に、石州左官について次のように書かれている。

ー石州左官の名の起こりはかなり古いが、馬路では大工と共に馬路職人は知る人ぞ知る。この世界では有名である。明治の中頃から九州・京阪神はもとより明治四十年代には朝鮮や満州までその足跡が及び(中略)馬路地区では背後が山地で農地面積も少なく、これといった産業もなくいきおい資本のいらない「腕」で食ってゆける技術を生かした大工や左官として出ていく他に生計の道がなかった。-


 では、なぜ馬路は他の村に比べて左官が多いのだろうか。それにはふたつの理由がある。
 
 一つは、産業も田畑もない馬路で生きていくためには、職人はもっとも手軽で元手も要らない職業であったこと。
 もう一つは、次男三男対策である。明治時代、徴兵制度により、次男・三男は徴兵に行かなければならなかった。そこで彼らは養子として大工の弟子になり徴兵を逃れていた。
 このような時代背景が、馬路で大工が多い理由だと考えられる。