間歩とは

 間歩とは銀山で鉱石を採掘するために掘られた坑道です。石見銀山の間歩群には、「龍源寺間歩」をはじめ、「釜屋間歩」、「新切間歩」、「大久保間歩」、「福神山間歩」、「本間歩」、「新横相間歩」の7つの間歩が国の史跡として登録されています。このほかにも石見銀山には600を越える間歩があり、龍源寺間歩よりも規模の大きい間歩や、露頭掘り跡がたくさん残されています。

 (1)龍源寺間歩です。
龍源寺間歩(りゅうげんじまぶ)とは、御直山(おじきやま)五ヶ山のひとつで、江戸時代の中頃に開発された代官所直営の坑道です。大久保間歩に次いで長く、約600mあります。そのうち一般に公開されているのは273m(新坑道含む)で、坑道の壁面には当時のノミの跡がそのまま残っています。
 また、排水のため垂直に100mも掘られた竪坑も見ることができ、石見銀山絵巻等の展示もあります。

      

 
  (2)新切間歩です。
新切間歩は、幕府代官直営の「御直山(おじきやま)」と呼んだ間歩の1つです。正徳5年(1715)、代官鈴木八右衛門のときに開発し、最初は疎水坑(水抜き坑)として掘ったものだそうです。なんと江戸時代後期には、坑口から520メートルまで掘り進んでいたようです。その後、休山となりました。
   


 (3)福神山間歩です。
福神山間歩は、採掘にあたった山師個人が経営した自分山(じぶんやま)のものであったが、代官川崎市之進(かわさきいちのしん)の頃には、代官直営の御直山(おじきやま)の坑道になったこともあったようです。御直山は天保15年(1844)には23か所まで増えるが、自分山は享保14年(1730)に55か所もあったものが、天保15年には9か所となってしまったらしいです。石見銀山には主な鉱脈が23本あったと伝えられいて、そこから岩盤の亀裂に沿って30cm前後の幅で鉱石を含んだ支脈が延びていたようです。
 この間歩は坑口が3か所あって、上段の坑は空気抜き坑、下段の2坑は中でつながり、銀山川の下をくぐり、後ろにそびえる銀山の最高地点「仙ノ山」の方向に堀り進んだと伝えられています。また、仙山(せんのやま)の逆方向へ向かって坑口が開いている珍しい間歩である。
   


 (4)釜屋間歩です。
釜屋(かまや)間歩は慶長年間備中出身の山師である、安原伝兵衛により発見・発掘されました。この発見により、減り始めていた石見銀の産出量が増えたと伝えられているそうです。慶長7年(1602)、安原伝兵衛は、近年銀の採掘量が減り、清水寺(せいすいじ)に祈願したそうです。祈願すること七日目に「銀の釜」を賜る夢を見てその夢を大久保石見守に申し上げ、資金を得て釜屋間歩を発見したといわれています。
   


 (5)大久保間歩です。
江戸時代から明治時代にかけて大規模に開発された坑道です。同銀山を支配下に収めた徳川家康によって、初代の奉行に任命された大久保長安が、槍を持って馬に乗ったまま入ったという伝承から大久保という間歩名になりました。

 大久保間歩は石見銀山最大の坑道跡で、坑内には江戸時代と推定される縦横に走る手掘りによる坑道と、明治時代の開発で機械掘りによって坑道を拡幅した様子を見ることができます。