銀山の歴史

◎石見銀山の歴史
 石見銀山は1309年に初めて発見されたと言われています。1967年には県指定史跡となり、1987年には大森、銀山の町並みが国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。2001年には世界遺産暫定リストに登載されるもなかなか世界遺産登録はされませんでした。しかし!!!!!!20077月2日にようやく世界遺産に登録されました。

 1303~1317年に
周防の大内弘幸が北辰星の託宣で仙山に銀の出ることを知りました。その後、16世紀に銀山は開発されました。なぜ16世紀に開発されたのでしょう。背景には、東アジアでの銀の需要の高まりがありました。特に中国の銀の需要は大きな影響でした。当時の中国(明)では北方から遊牧民が侵入してきたため、軍事金として銀の需要がありました。それまでは銅を貨幣としていが、海外に流出しすぎて国内では枯渇。そこで紙幣が登場したが、信用がなく、やがてインフレにより紙くず同然に。そして役人は銀を貨幣とし、税も銀で納付することになったため、中国では銀の爆発的な需要が起こりました。

 日本では、周防の大名・大内氏は博多の商人と結び、中国と貿易を独占的に行っていました。 その商人の中に神谷寿禎がいて、中国で銀の需要があることを耳に。寿禎は技術者を引き連れて、1526年に仙ノ山で銀鉱石の採掘を行いました。当初、採掘された鉱石は博多あるいは朝鮮半島に送って製錬していましたが、コストがかかるため、2人の技術者を博多から招き、灰吹法という製錬方法を導入。これによって銀山の産銀量は大幅に増加し、やがてこの技術は各地の鉱山に伝えられ、日本の鉱山技術に一大変革をもたらしました。世界の産銀両の役3分の1を占めた日本銀のかなりの部分が石見銀山で産出されたものだと考えられています。



◎銀山街道
 石見銀山街道は、近世に整備され島根県大田市温泉津町から広島県尾道市、そして岡山県笠岡市まで繋がっていたと考えられ、山陰と山陽を結んでいます。天領である大森銀山から産出された銀を山陽の港町、尾道まで運ぶために設けられた街道です。当初は海路による運搬だったので、大田市仁摩町鞆ヶ浦へ抜ける鞆ヶ浦道が整備され、16世紀に大森銀山の支配権が毛利氏に変わったことを機に、大田市温泉津町の沖泊港へと抜ける沖泊道が整備されました。尼子、毛利氏と支配権が移り、関が原以降は徳川家康が直轄領とした。大久保長安が銀の産出量を増大させた。安定的に上方に運ぶため、石見街道が切り開かれていきました。横領の咎により長安失脚後、上下に代官を置き、銀山を支配、ここを経由し親藩の水野福山藩を経由、直轄の笠岡へと運ぶようになっています。また、甲山から尾道までは、天平の頃から、荘園である大田荘から尾道まで物資を運び船積みして大坂や京都へと運んだ道。銀山街道としても、また、江戸時代盛んになった、出雲大社道としても大いに往来があったようです。
  現在では銀山街道の一部である大田市温泉津町への沖泊道と、美郷町内を走るやなしお道は文部科学省の「歴史の道百選」に選ばれ、その歴史的価値が公に認められ、街道沿線の市民団体やNPO団体の活動により街道の保全や伝承、PR活動が行われています。



◎世界遺産登録の理由
 2007年に石見銀山は世界遺産に登録されましたが、その理由としては3つあると言われています。
①17世紀ころの交易活動と結び付き、東西文化の交流を催促させたこと。
②高品質の銀生産を可能にした優れた技術があること。
鉱山跡や搬出ルートなどの産業形態、及び豊かな自然環境が損なわれずに残されていること。
 特に三つ目の「豊かな自然環境が損なわれず」という点が、「21世紀が必要としている環境への配慮」として非常に高く評価されました。

鉱山には自然破壊のイメージがありますが、石見銀山は、銀精錬に必要な森林の伐採と再生が見事に調和し、緑豊かな自然環境がそのまま残されています。

参考資料:〈歩く旅シリーズ〉

街道・古道  世界遺産 石見銀山を歩く
参考サイト:http://fish.miracle.ne.jp/silver/history/introduction.html
        http://shimaken.org/ginzan/kaidou/ginzanframe/